フォークの背論争の現代の情勢

 改めてテーブルマナーのフォークの背にライスを乗せて食べる件についての世間の皆様の見解を目にする機会がありました。というか、放っておくとスマホのトピックにのって流れてきます。それの善し悪しは置いておいて。

 表題の件、やはりフォークの背にライスは、相当マイナーであるらしい印象を受けます。サイトによっては、マナー違反と断じていたり、マナースクールの見解として推奨しないと言われたり。

 フォークの背派の起源としては、イギリス式のマナーで、フォークを右左で持ち替えること、左手でも表裏に持ち替えることを良しとしない、古式ゆかしい教えに基づくようです。その場合にライスをいただくとなると、背に乗せるのが自然です。
 一方、フランス式、これが欧米では一般的とのことですが、左右の持ち替えOKらしいのです。それなら、問題なくフォークの腹で掬って食べることもできましょう。ただ、持ち替えの手間に関しては、ひと手間動作が多くなることは許容されるということなのでしょう。

 多様性の時代ですから、つまるところどっちでも、という結論になっていただければ良いのですが、どうにもフォークの背の派閥は肩身が狭い状況にいる気がします。基本的に少数派であるとこもその原因としてありましょう。なぜ、少数派なのでしょうか。多分、食べやすさという点で持ちかえ派に軍配が上がったからでしょう。フォークの背派、持ちかえ派は、ともにライスをナイフとフォークでいただこうという異文化の摩擦にて生まれた試行錯誤のひとつなのですから、多様な方法論が試された、検討された結果であるはずです。ですが、食べにくい、こぼしやすいと行った誹謗中傷に近い難癖のような理由で鬼の首をとったように語られると、私としてもちょっとカチンとくるものがあるのです。

 以前、というか割と最近に、ご飯粒残したらみっともないなんておかしい、といった投稿がXにてバズっておりました。同様にお金を払っているのだから無駄とわかって残すのも自由だという風潮もありました。
 ご飯粒論争は新旧、習俗、美学としての文化の違いでもありましょう。ちょっと視点を変えると器用不器用、食器の操作の習熟の問題とすることもできるかもしれません。 
 習熟の視点で考えると、この価値観のブレはまるでゆとり教育です。多様性の暗黒面。怠惰と怨嗟の声が大きくなってのこのゆらぎが生まれてしまったのではないかと思われます。マナー界の円周率およそ3です。これはどうだろう。
 
 大仰な例えでした。食べ物を無駄にしないのは大前提です。しかし、その食べ方に関してはちゃんと文化と衛生を感じさせるなら、許容されるべきだと考えます。

 ならば、なぜフォークの背論争がこうなってしまったのか?
 欧米には白米文化があまりなく、更には一品ずつ食べきる習慣があり、三角食べとナイフ・フォークは相性が悪いということがあげられましょう。
 添え物としてのライスを、メイン料理とともに食べるにはフォークの背を許容しない限り、どうしても持ち替えが発生します。洋食黎明期の当時の日本では持ち替えを良しとしないフォークの背派が幅を利かせていたらしいのです。しかし、一定の食べにくさも持つフォークの背、イギリス式は、後年一般の庶民にも洋食ライスが広がっていく中で、ヘイトを集めたことは想像にかたくありません。その時期には、フォークの背派は特権階級として持ち替え派、お箸派見下していたのでしょうか。あり得ます。今どきのマナー講師みたいなことが、当時も起こっていたとして不思議はありません。
 その反動と、イギリス以外の欧米のマナーを実際に見聞きする機会が増えたことにより、持ち替え派が力を付け、また敷居を下げて集客をしたい飲食店の思惑もあり、いわゆるフランス式のマナーが市民権を得ていきます。 さらには、洋食店でもチョップスティック、お箸が提供される機会が増え、お箸派もより配慮されるようになりました。やや堅苦しいしきたりへの反動、ルサンチマンが動機の一つですから、旧態然としたフォークの背派は迫害を受けてもおかしくない立ち位置です。人の歴史はかくに感情的なものか。
 これからは一周回って、フォークの背派も認められるような風潮になっていくでしょう。もちろん、それが復権するということではなく、嫌味なく方法論の一つとして許されるということです。
 食べにくい等の批判も、一度に口に入る量を自然にセーブできるという長所にもなり得ます。
 私は、フォークの背ご飯が好きです。その作業感が癖になります。持ち替え派、箸派にどうこう言わないことをもって、好きにさせていただきます。
 
 
 
 
 

コメント